日本伝統文化振興財団創立25周年記念公演
4、 新内節「日高川 飛込(とびこみ)の場」(浅田一鳥・並木宗輔 共作)
浄瑠璃 新内多賀太夫★
三味線 新内仲三郎(人間国宝)
上調子 鶴賀喜代寿郎
(解説)
新内節は、江戸中期(18世紀半ば)の富士松薩摩掾や鶴賀若狭掾の浄瑠璃を源流とし、鶴賀新内が語り広めた浄瑠璃です。初期には歌舞伎の伴奏音楽として用いられましたが、やがてそれまで通例だった舞台演奏を離れ、江戸市中や遊里を流して聴かせる斬新なスタイルで人気を博しました。三味線を伴奏に哀感溢れる節で男女の心情を歌う新内節は、江戸情緒を代表する庶民的な音楽として隆盛を極めました。
《日高川》の本名題は「日高川嫉妬の段」で、安珍清姫伝説を題材に1742(寛保2)年8月、大坂豊竹座で初演された人形浄瑠璃義太夫節『道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)』四段目を新内節に移曲した作品で、恋い焦がれた安珍を追って日高川に飛び込み大蛇となる清姫の、狂乱の恋の姿が描かれています。
(詞章)
〽着きにけり。
〽早や月白も差し昇り。
清 姫「オーイノウ、その船渡してたべ、早う早う」、
〽と呼ばわれば、
〽寝耳にびっくり船長が、眼を摺り擦る佛頂面、
舟 長「アタか姦しましい何んじゃいの」
清 姫「イヤノウ、夜明けの事はさておいて、一寸の間も待たれぬ急用、道成寺まで早う行きたい。慈悲じゃ情けじゃ、どうぞ渡して下され」
舟 長「イヤァ、何んじゃと、道成寺へ行く。道成寺へ行くと云やれば、宵に渡した山伏の後を追うてきた女子じゃな。それなれば尚ならぬわい。彼の山伏の頼みには、様子あって某は、道成寺まで逃げ行く者、後より十六七な女子が来たならば、必ず舟を渡してくれるな。会うては忽ち命づくにも及ぶ事、ここは一番船長の達引じゃ、渡すことは成らぬ」
〽成らぬとつこ怒鳴る。
〽コレノウ、それは胴欲じゃ。たとえ渡して下さっても、此方に咎とがも難儀もかけまい、思う男を人に寝取られ、私は行かねば焦がれ死、乗せて下され渡してたべ、慈悲じゃ情けじゃ功徳じゃわいのう、これじゃこれじゃと手を合わせ、拝みつ詫びつ身を悶え、泣き叫ぶこそ道理なれ。
〽今は詮方泣く目を払い、
清 姫「オゝ、よう云うた。渡さぬとてここ迄来て、やみやみと帰ろうか、恨み云わずに、すまそうか」
〽百尋千尋も何んのものかは渡ってみせんと身繕い。川へざぶんと飛び込んで、逆巻く浪を掻き分け掻き分け、左手(ゆんで)に沈み右手(めて)に浮き、抜手を切ってサッサッサッ、さっと飛び散る水煙り、雲を誘える蛟龍(こうりゅう)の湖海を渡る如くにて、跳ね立て蹴立てて泳ぎしは、瞋恚(しんい)の冥火(みょうか)か五體を焦がし、口より吐く息焔々(えんえん)たる。炎を吹きかけ眼を瞋(いから)し、髪逆様に振り乱し、一念凝ったる勢いに、船長びっくり泣(わなき)声、
〽やれ恐ろしや凄まじや、なめ殺されてはなるまいと、舟を乗り捨て駆け上がり、堤の原を横切れに、命からがら逃げて行く。
【プロフィール】
新内仲三郎(しんない なかさぶろう)
《新内三味線》【特別出演(人間国宝)】
6歳より長唄、小唄、端唄、日本舞踊を学ぶ。1955年叔父の新内仲造に入門。57年新内仲三郎を名乗り師範。84年冨士元派六代目家元を襲名。93年芸術選奨文部大臣賞受賞。2001年重要無形文化財新内節三味線保持者(人間国宝)に認定される。その間、文化庁芸術祭優秀賞、名古屋演劇ペンクラブ特別賞、松尾芸能邦楽優秀賞、伝統文化ポーラ賞、紫綬褒章、旭日小綬賞叙勲など受賞多数。
2001年、日・中・韓三都市による「BeSeTo」演劇祭に日本代表として「風に立つ仲三郎」を公演。創作作品に「楢山節考」「雪女」「羅生門」「千手
の前」など多数。新内協会副理事長。
新内多賀太夫 (しんない たがたゆう)
《新内節》/第22回(2018年)受賞者
1982年東京生まれ。6歳より父の新内仲三郎(人間国宝)に師事。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業し、同大学院博士課程を修了。論文「琴(箏)を通した上調子の発生と発達」で同大学院音楽研究科三味線音楽専攻音楽学位(博士号)を取得。2017年新内節冨士元派七代目家元を襲名。歌舞伎や新派公演、国立劇場、三越劇場、紀尾井ホール主催公演等に出演。深川江戸資料館では新内流しの再現を行う。新内協会理事。
2004年東京藝術大学常英賞、09年第22回財団法人清栄会奨励賞、13年第34回松尾芸能賞新人賞、14年文化庁芸術祭賞新人賞、15年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。創作曲に「寿猫」「乙姫」「因幡の白兎」他。劇伴に「窯変源氏物語~夕顔、玉鬘、葵~」「謹訳源氏物語~桐壺、帚木~」「黒蜥蜴」他。歌舞伎では「マハーバーラタ戦記」や「世界花小栗判官」の一部を作曲。
5、 清元節「鳥刺(とりさし)」(詞 三升屋二三治/曲 初世清元斎兵衛)
浄瑠璃 清元美寿太夫、 清元清美太夫
三味線 清元美治郎★、清元栄吉★
(解説)
清元節は、江戸時代後期に初世清元延寿太夫(1777~1825)が創始し、歌舞伎の伴奏音楽として現代まで伝承された、浄瑠璃と通称される「語りもの」に分類される声と三味線による音楽で、中棹三味線を使用します。
《鳥刺》は、清元節を代表する名曲のひとつで、本名題は「祗園町一力の段」。1831(天保2)年8月、江戸市村座での歌舞伎「忠臣蔵」の七段目、一力茶屋の段の舞踊曲として初演されたと伝えられます。「鳥刺」とは、長い細竹の先に付けた鳥モチで捕えること、また、捕えた小鳥で商いをする人々のことを指し、その滑稽な仕草や粋な風情が軽妙な舞踊に生かされています。
(詞章)
〽さすぞえ さすはさか盃づき 初会(しょかい)の客よ 手にはとれども初心顔 〽さいてくりょ さいてくりょ 〽これ物にかんまへて 〽まづこれ物にかんまへて ちょっとさいてくれうか さいたら子供に羽根やろな 鶸(ひわ)や小雀(こがら)や四十雀(しじゅうから) 瑠璃は見事な錦鳥(にしきどり) 〽こいつは妙々(みょうみょう) 奇妙鳥類何でもござれ 念佛(ねぶつ)はそばで禁物と 目当て違はぬ稲むらを 狙ひの的とためつすがめつ いでや手並みを一ト刺しと 一散走りに向ふを見て きょろつき眼(まなこ)をあちこちと 鳥刺棹も其の儘に 手足のばして捕らんとすれば 鳥はどこへか随徳寺 思案途方に立止り 〽シタリところてんではなけれども突出されても自分ものこれぢゃ行かぬと捨鉢に あとはどうなれ ひく三味線の 〽気も二上りか三下り 〽浮いて来た来たきたさの酒の酔ひ心 四条五条の夕涼み 芸妓(げいこ)幇間(たいこ)を引連れて 〽上から下へ幾度も ゆたかな客の朝帰りカアカアカア 鴉(からす)鳴きさえエヽエヽうまい奴めと なぶりおかめからそこらの目白が 見つけたらさぞ鶺鴒(せきれい)であらうのに 〽日がら雲雀(ひばり)の約束は いつも葭切(よしきり)顔鳥(かおどり)見たさ 〽文にもくどう駒鳥の そのかへす書きかへり事 なぞと口説きで仕かけたら 堪った色ではないかいな 〽その時あいつが口癖に都々逸文句も古めいた 〽晩に忍べといふた故 紺の手拭いで顔かくし いつも合図の咳払ひハツクサメ 噂されたを評判に 幸ありやありがたき 〽実(げ)に御贔屓(ごひいき)の時を得て座敷の興も面白き 息せき楽屋へ走り行く
【プロフィール】
清元美治郎(きよもと よしじろう)
《清元三味線方》/第3回(1999年)受賞者
1945年大阪生まれ。64年清元寿国太夫に入門、後に清元一寿郎にも教えを受ける。65年清元美治郎の名を許される。68年NHK邦楽技能者育成会第13期卒業。73年荻江露延の名を許され、荻江節の三味線方を兼ねる。清元の三味線方として、清元節の曲調をよく伝える一方、舞踊曲を中心とした作曲でもすぐれた能力を発揮、廃絶した古典の復曲にも取り組んでいる。早くから三世今藤長十郎等主宰の「創作邦楽研究会」で研鑽を積むなど、邦楽の他分野との創作活動にも深くかかわっている。
90年清栄会奨励賞、2003年松尾芸能賞邦楽優秀賞、12年東燃ゼネラル音楽賞邦楽部門、14年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。15年清元美寿太夫との「二人会」の成果により文化庁芸術祭賞大賞受賞。清元協会理事、奏舞集団「くるまざ」同人。
清元栄吉(きよもと えいきち)
《清元三味線方》/第16回(2012年)受賞者
1963年東京生まれ。83年東京藝術大学音楽学部作曲科に入学。作曲を北村昭、八村義夫、近藤譲、ジャワ・ガムランをサプトノ、伽倻琴を池成子、雅楽を芝祐靖、長唄三味線を田島佳子、常磐津三味線を常磐津英寿、清元を清元榮三郎、清元志佐雄太夫に師事。88年同大学卒業後、清元榮三郎に入門。89年七世宗家清元延寿太夫家元より清元栄吉の名を許される。同年、公文協歌舞伎公演「吉野山」の上調子で初舞台。90年パリ・フランクフルト歌舞伎公演に参加。2004年新春浅草歌舞伎で立三味線を勤める。NHK大河ドラマの邦楽指導のほか、東京藝術大学などで後進の指導にあたる。また放送、舞台、舞踊曲など伝統をいかした作曲でも幅広く活躍する。
03年財団法人清栄会奨励賞、12年松尾芸能賞邦楽新人賞受賞。現代邦楽作曲家連盟会員、清元宗家高輪会理事、 創邦21同人。東京藝術大学非常勤講師。
【解説 日本伝統文化振興財団(琉球舞踊を除く)】
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「伝統芸能の現在と未来~古典継承の最前線を聴く~」(2)につづく
(記事公開日:2018年12月25日)