善養寺惠介尺八演奏会
2008年10月27日(月)開催
(トッパンホール)
ビクター財団賞「奨励賞」(現・日本伝統文化振興財団賞)受賞やZEN YAMATOとしての活動ほか、多方面で活躍する善養寺惠介師。賛助出演に藤井泰和師、滝澤郁子師、山登松和師を迎え、尺八のソロと三曲合奏のアンサンブルをひとつのプログラムのなかで融和させる試みとして行なわれた、多彩な尺八音楽の可能性を感じさせる演奏会の模様をお届けします。
ふたつの尺八の融和
文:笹井邦平
琴古流尺八奏者・善養寺惠介師は『虚無尺八(こむじゃくはち)』と題する独奏の会で〈尺八古典本曲〉の今日的表現を模索し、一方別の舞台では〈三曲合奏〉での尺八の表現も研究してきた。同じ尺八の表現でもこの2つはその表現世界の方向性を異にし、この方向性の異なる独奏曲としての〈尺八古典本曲〉と〈三曲合奏〉における尺八の演奏を1つのプログラムの中で表現することによって、尺八音楽の持つ今日的融和の可能性に少しでも迫る-というのがこのリサイタルのテーマ。
前奏曲として
序曲は「普大寺 調子(ふだいじ ちょうし)」(尺八独奏二尺四寸五分管-善養寺惠介)。浜松の普大寺に伝承されている曲で、尺八の鳴り具合を調べて呼吸と音調を整えるいわば前吹きの曲。
舞台には箏が置かれ善養寺師と次の「秋風曲(あきかぜのきよく)」を合奏する山登松和師がともに下手より登場し、善養寺師が緩やかに「調子」を吹き始める。つまりこの曲を「秋風曲」の前奏曲として吹こうというのだ。大地から自然に音が湧き出る如くたおやかな調べはまさに諸国行脚の虚無僧ワールドへいざなってくれる。
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音楽の本質を求めて
2曲目は藤田雁門作詞・光崎検校作曲「秋風曲」(箏-山登松和、尺八二尺四寸五分管-善養寺惠介)は箏曲の〈本曲〉というべき段物・組歌の合体で〈新組歌〉と云われ、善養寺師のような古典本曲吹きが本質的に箏曲と向き合うには避けて通れない曲である。
内容は白楽天の『長恨歌』をモチーフとし、玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を六首の歌で綴っている。長い前弾きの中で箏と尺八がピッチを揃えて緩やかに溶け込んでゆき、滑らかな竹の調べが響きの良い洋楽ホールに谺する。山登師の箏・歌と善養寺師の尺八は淡々とした中に時折鋭い気合が光り、この悲劇の陰影をくっきりと浮かび上がらせる。
メロディアスな追善曲
3曲目は峰崎勾当作曲「残月」(箏-滝澤郁子、三弦-藤井泰和、尺八一尺八寸管-善養寺惠介)。追善の曲として有名だが尺八古典本曲にはどの曲にも鎮魂曲の風情が漂っているので、尺八本曲の色合いが違和感なくこの曲にマッチする。藤井師の抑揚を抑えた歌と滝澤師の清楚な爪音に比して善養寺惠介の尺八はメロディアス。五段からなる手事(長い間奏)で三者の見事なアンサンブルが難曲・大曲と云われるこの曲を凌駕している。
長い橋
最後は「布袋軒 鈴慕(ふたいけん れいぼ)」(尺八独奏二尺四寸五分管-善養寺惠介)。「鈴慕」は所伝する虚無僧寺によって曲想が異なり、布袋軒所伝の曲は柔らかな曲想で流れもよく尺八本曲のエキスが詰まっている。
甲(高)音が澄んで呂(低)音が深く沈み、そのギャップが豊かな広がりを創り、間(サイレント)が逝った人への鎮魂に聴こえる。
尺八ソロとアンサンブル、虚無僧音楽と近代箏曲、この2つの間に掛けられた長く遠い橋を21世紀の虚無僧が渡ろうとしている。竹の筒で造っただけのシンプルかつ深く豊かな響きを湛えた一本の剣を帯に挟んで……。
善養寺惠介
1964年生まれ。六歳より父昭三と岡崎自修(いずれも神如道門人)に虚無尺八の手ほどきを受ける。
1982年 | 神如正に師事。 |
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1990年 | 東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。学部、大学院を通して人間国宝 山口五郎に師事。 |
1988年 | 国際尺八フェスティバル(コロラド州ボルダー)に招待演奏家として参加。 |
1999年 | 第一回独演会『虚無尺八』開催、今までに八回を重ねる(2008年10月現在) |
2000年 | 二月 尺八教則本「はじめての尺八」(音楽之友社刊)を執筆。 |
2002年 | 五月 ビクター財団賞「奨励賞」受賞。10月 世界銀行主催、世界宗教者国際会議(於イギリス カンタベリー大聖堂)にて、招待演奏。 |
そのほか、国際交流基金派遣などによるヨーロッパ、アジア各地での公演多数。東京藝術大学非常勤講師を務めた後、現在は関東各地区(東京、埼玉、群馬)での尺八教授活動も行なっている。
百錢会主宰、NHK文化センター町田教室、川越教室講師。
善養寺惠介 official website http://zenyoji.jp/
笹井邦平(ささい くにへい)
1949年青森生まれ、1972年早稲田大学第一文学部演劇専攻卒業。1975年劇団前進座付属俳優養成所に入所。歌舞伎俳優・市川猿之助に入門、歌舞伎座「市川猿之助奮闘公演」にて初舞台。1990年歌舞伎俳優を廃業後、歌舞伎台本作家集団『作者部屋』に参加、雑誌『邦楽の友』の編集長就任。退社後、邦楽評論活動に入り、同時に台本作家ぐるーぷ『作者邑』を創立。
(記事公開日:2008年10月27日)