第十三回 福田千栄子演奏会

  • 文字サイズ:

2006年12月20日(水)開催
(紀尾井小ホール)

1992年より継続し、高い評価を得ている定期演奏会「福田千栄子演奏会」。今年は12月20日に紀尾井小ホールにて開催、多数の聴衆が訪れ、歌と糸との音の絡み合いの妙味を堪能しました。他分野とのコラボレーションでも知られる福田さんの、本来の姿といえるコンサートの模様をお届けします。

文:笹井邦平

サラブレッドの実力派

福田千栄子(ふくだちえこ)師は平成五年度文化庁芸術祭賞を史上最年少で受賞し(私の記憶では二十代だったと思うが)、現在三曲界の中堅実力派として活躍を続けている。

祖母は九州系地歌箏曲の福田栄香(ふくだえいか)師、父は福田種彦(ふくだたねひこ)師というサラブレッドの家系に生まれ、種彦師の箏の名演奏に乗って「さくら」を歌って初舞台を踏んだのが三歳だったという。

折り返しの原点回帰

箏組歌「須磨」
箏組歌「須磨」

今回のリサイタルのテーマは〈歌〉。日本音楽は基本的に歌がメインでその伴奏が箏や三味線などの弦楽器、それを装飾するのが尺八や横笛などの管楽器と鼓・太鼓などの打楽器いわゆる〈囃子(はやし)〉である。特に九州系地歌箏曲は〈歌〉と箏・三絃(三味線)など〈糸〉との微妙な音の絡み合いを深く極めているジャンルで、今回のプログラムは千栄子師の芸の〈原点回帰〉ともいえる。

二十代で芸術祭賞を受賞して若手のホープといわれた千栄子師も今や四十代、いわば人生・芸道半ばの円熟期に達し、「初心に帰って自らの芸の足跡を振り返り、それを糧に新しき芸道を切り開く」-私は彼女の今回のコンセプトをこう見ている。

自らの足跡映す「ゆき」

2曲目の「雲井弄斎」
2曲目の「雲井弄斎」

はじめの曲は「須磨(すま)」(歌・箏-福田千栄子)。これは〈箏組歌(ことくみうた)〉と云われるジャンルで和歌などを何首か組み合わせて綴る構成で、『源氏物語』の中の須磨へ流された光源氏の傷心をテーマに千栄子師の澄んだ歌声とたおやかな箏の音色が絶妙のバランスで鏤められてゆく。

2曲目の「雲井弄斎(くもいろうさい)」は同名の〈箏組歌〉があるので、三絃で弾き歌いするこの曲は別名「歌弄斎」とも云われ、17世紀半ばに流行した〈弄斎節〉という歌謡の歌詞を用いているのでこう呼ばれる。歌の間に入る〈手事(てごと)〉という間奏が聴かせ処で、千栄子師の凛とした歌と三絃のメリハリのある音色が箏歌とは違ったタッチでサクサクと運んでゆく。

福原徹師(正面右)との「ゆき」
福原徹師(正面右)との「ゆき」

終曲は地歌の中で最も演奏頻度の高い人気曲「ゆき」。これは〈端歌物(はうたもの)〉という比較的短い曲で恋や廓をモチーフにしたものが多く、「ゆき」は元大坂南地の芸妓で今は出家した尼僧が来ぬ人を待って明かした夜の切なさを回想する-という内容。緞帳が上がる前から大太鼓で〈雪音〉が打たれ、千栄子師の艶やかなそして何かもの悲しい三絃の弾き歌いに福原徹(ふくはらとおる)師のこれもくすんだ悲しみや怒りを堪えた如き笛の音がそこはかとなく響く。

「千栄子さんもこんな曲が自然に歌えるようになったのか」という想いが私の胸にこみ上げる。それは一児の母としてご子息を育て、3年前に芸の師でもある父・種彦師を亡くし、人として女としての悲しみ・苦しみを乗り越えて飽くなき芸道の研鑽と開拓を目指す千栄子師の今の姿を映しているからだ。その姿は美しく哀しい。

写真はリハーサル時のもの

福田千栄子(ふくだ ちえこ)

幼少より、父福田種彦に箏・三弦の手ほどきを受ける。三歳で初舞台。

1988年 NHK邦楽技能者育成会第三十三期卒業。
昭和六十三年度文化庁国内芸術研修生。
1992年 初リサイタル「福田千栄子演奏会」を開催。(以降継続開催)
1993年 第二回リサイタルに対し、平成五年度文化庁芸術祭賞を受賞。(史上最年少)
1997年 第六回リサイタル「福田千栄子演奏会――独奏の調べ」に対し、平成九年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞。
1998年 (財)ビクター伝統文化振興財団より、初CDアルバム「芸術祭賞記念盤・秋風の曲」をリリース。
1999年 ドイツ国内にて「福田千栄子アンサンブルコンサート」を巡演。ケルン日本文化会館三十周年式典演奏には、秋篠宮殿下、妃殿下御臨席。
2000年 国際交流基金主催事業「福田千栄子アンサンブルコンサート」を東南アジア四カ国にて巡演。
2004年 十二月四日、朝日新聞記念会館ホールにて、福田種彦一周忌追善演奏会開催。三ッの音会を継承し三代家元となる。

舞台・TV・ラジオでの演奏、教授活動の他、ワークショップなどにも意欲的に取りくみ活動の場を広げている。
現在、社団法人日本三曲協会参与。生田流協会理事。三ッの音会主宰。

笹井邦平(ささい くにへい)

1949年青森生まれ、1972年早稲田大学第一文学部演劇専攻卒業。1975年劇団前進座付属俳優養成所に入所。歌舞伎俳優・市川猿之助に入門、歌舞伎座「市川猿之助奮闘公演」にて初舞台。1990年歌舞伎俳優を廃業後、歌舞伎台本作家集団『作者部屋』に参加、雑誌『邦楽の友』の編集長就任。退社後、邦楽評論活動に入り、同時に台本作家ぐるーぷ『作者邑』を創立。

(記事公開日:2006年12月20日)